COMMUNITY

コミュニティ

松久 由宇

松久 由宇

アート

単純に絵が好きだった子供の頃の私。今も絵が好きな自分・・(サムネの写真は若い頃のものです)。女性、あるいは少女像の表現を求めて、描き続けたいと思います。よろしくお願いします。

松久 由宇
松久 由宇
管理人
プロフィール
松久由宇(本名、松久壽仁)
1949年北海道・置戸町生まれ。
父が地方公務員だったこともあり、道内で移住地を変えること6度。
それぞれの地にはそれぞれの想いと匂いがあり、何れも故郷の感。

生まれつき絵が好きだったのか、地元の公民館で4歳当時の私の絵の展覧会があり、天才少年として新聞に掲載される。
中学生の初めての美術で、先生自らがモデルとなったクロッキーの授業の際、「この人は画家になれる!」と評価してくださり、以来「必ず芸大に行け!くれぐれも漫画だけは描くな!」と強く念を押されたにもかかわらず、何故か漫画に傾倒し・・1968年に上京。漫画プロダクション に就職。4ヶ月で退社して、桑田次郎 (『月光仮面』でお馴染みの)先生のアシスタントとなる。

1970年~漫画家としてデビューし、依頼に応じて、当時の青年誌に様々な作品を発表する。分野は多岐にわたり、女性像、作品表現の詩情が評価され、個人的にはSF分野のオリジナルを好みとしていた。

漫画ブームだったこともあり、多くの作家がデビューし勢いを見せるも時代は流れ、出版業界の不調と共に人の流れもその姿を変えた。
昭和から平成、令和と時代は変わっても、少年の心や魂の輝きを持ち続けたいと願う・・今日この頃です。
コミュニティのカテゴリー
アート
松久 由宇
2020.07.11
29

Y君の家が貧乏なことは予想がついていた。
Y君の家は網走の中でも、貧しさがわかる集落にあったからである。
それでも興味はあった。
予想通りのバラック(木材で出来た家屋)に着き、
「入れよ!」と招かれた。

「いらっしゃい!」

Y君のお母さんが笑顔で迎えてくれた。何だか・・とても
嬉しそうだった。

「待ってね・・・」と、番茶とカリントウを出してくれた。

少年は部屋の様子をそれとなく観察する・・
木材の柱は焼け焦げたように真っ黒で、壁の木も古く、襖には全て
新聞の広告紙(チラシ)が貼られていた。障子も・・同様であった。

Y君のお母さんは次々と、少年にいろいろ話しかけてくれた。
部屋も笑い声で満たされ、笑った顔など知らないY君の顔にも
笑顔が感じられた。そんな時間が過ぎた頃、

「ご飯・・食べてく?」
「・・・はい!」

出された食事に少年はちょっと驚いていた。
小皿にあったおかずは・・出がらしの番茶の漬物のみ。
ほぼ麦で占められたパラパラのご飯に、それをかけて食べるのだ。
「・・・どう?おいしい?」お母さんに聞かれ、
「おいしいです!」と答えた。
お腹を空かせていた少年にとって、嘘ではない正直な感想だった。

おそらく初めて訪れた、Y君の初めての友達に対する、
精一杯のもてなしだったのだと思う。
お母さんはとても嬉しそうに見送ってくれた。

この日は家にいなかったのだが、
Y君には小児麻痺の障害を抱えた弟もいた。

それから半年も過ぎた頃、
Y君の住む集落一帯は火事となり全焼した。
Y君の弟が亡くなったとの噂も聞いた。

Y君は転校したと聞かされたが、
Y君の集めていた薪と火事のイメージが妙に重なり、
複雑な思いのまま・・・少年は彼ら一家のその後の幸せを願うしか
なかった。

「お母さん・・・番茶漬物のご飯、とっても美味しかったです!
ごちそうさまでした!!」

(ある少年の番外編・完)
:
松久 由宇
2020.07.11
30

○佐藤プロダクション
 
私は予定通り、高田馬場にある『佐藤プロダクション』に就職した。
秋田から来た「H君」「S君」の2名(知り合い同士)。
宮城からは「T君」。そして「私君」を加えた合計、何故か
4名・・である。私がもっとも遅い参加であった。

私達4名は職場に住み込みで働く事となったが、
場所は駅にも近い高台にある近代的なビルで、
(・・こ、これがプロの職場なんだ?!)と、圧倒されていた。
先生である『佐藤まさよし』は、当然、仕事場へは通いであり、
他の関係者4名も通いである。
実質、プロダクションを運営している先生の実兄・K氏
(この職場に関わる人物は先生以外すべて仮名とします)。
2年先輩で、すでにプロデビューもしているチーフのM先輩。
やはり先輩女子のK子(この人は仕事には参加しない)。
そしてもうひとりの女性スタッフ・E子。以上である。

挨拶も早々に、翌日からさっそく仕事の開始である。向かい合わせに
並べたそれぞれの机に座る。同時就職とはいえ数日前から先に仕事を
始めている同僚には、すでにプロのオーラが放たれて見えた。
(負けるものか・・・!)
当然、先生が原稿に向かいペンを走らせる姿こそが、
真実のオーラを発して神々しいほどである。
(こ・・これがプロなんだ?!)と、初(うぶ)な私。

締め切りに追われる緊張感の中でも、先輩達と同僚の会話も弾み・・
基本、明るい職場であった。少しずつ作業にも慣れてきて・・
この職場に来て良かったと思った。
:
松久 由宇
2020.07.11
31

○真っ赤な買い物カゴ

同期の私達4人には、買い物当番と炊事当番があって、
自分達の食事は自分達で賄っていた。
だが、ちょっと恥ずかしい事もあった。
時間帯は夕方、ちょうど早稲田の同年代の学生達の帰宅の時間と
重なり、商店街で行き交うこととなる。

自意識過剰かとも思うが、
彼らからの、どことなくニヤけて見下す目線・・・
だが、卑下することは無意味である。
自分は彼らよりも、もっと夢に満ちた勇者なのだ!

大根や長ネギを入れた「真っ赤な買い物カゴ」を堂々と下げて、
前進すればいい!!
:
松久 由宇
2020.07.11
32

○貸本屋の世界
 
北海道の地元で貸本の知識もなかった私は同僚達に責められ、
その世界がいかに素晴らしいかの教育を受け、
貸本屋のいくつかを訪問し本を買うことを強要された。
で、少ない購入資金を携えて出かけたのである。

遅い紹介になるが、私達新人の給料は900円であった。
50年後の今にしても笑うような金額に、本当だったろうか?と謎だが、
決して9000円では無かった気がする。
それでも、衣食住に足り、夢を追う我々若造にとっては
十分な報酬だったのである。

知識に満ちた同僚達と共に、独特なオーラを放つ、
いくつかの出版社を訪ねた。社長が居たりもした。
同僚から薦められた本を買えるだけ買った。
商業誌しか知らなかった
私を感動させる数々の作品群との出会いだった。

山本まさはる。みやはら啓一。みやわき心太郎。辰巳ヨシヒロ。
五十嵐幸吉。楠 勝平。沼田清・・その他、
初対面の知らなかった作家陣がキラ星のごとく輝いていた。
:
松久 由宇
2020.07.11
33

○慰安旅行
 
プロダクションは私達全員での慰安旅行も計画してくれた。
マイクロバスでの軽井沢へのトンネル・・
「トンネルを抜けると雪国だった」
(その時、実際に大雪が降っていた!)を実体験もした。

先生や同僚や先輩達の素の笑顔にも触れた。
好い職場に居れる幸せを感じていた。

○職場語
 
先生とお兄さんはコテコテの関西弁。秋田からの二人は強烈な秋田弁。
宮城弁のT君。そして北海道弁(実質はほぼ標準語)の私。 
錯綜する仕事場の言語風景は、
やがて・・「せやろ?」「ほなそうするわ!」「やめてーな!」
「ほんまか?」「だから言ったやんけ!」etc、、

先生語を強調する妙な関西弁で統一されていた。
:
松久 由宇
2020.07.11
34

○M先輩の怒り・その1
 
ある日、「私君はどうして先輩の俺に何も聞いてこない?!」と
怒られた。秋田の同僚の二人は先輩の機嫌をとるように、
マメにあれこれ聞いていたが、
(わからないことは自分で見つければいい!)が私の性分だった。
この出来事が、M先輩が私を嫌う伏線になったのかもしれない、、


○M先輩の怒り・その2
 
その日は仕事も終わり、たまたまM先輩も食卓に座り、
夕食を待っていた。その日の炊事当番はH君だったが、
彼が配膳をすすめていると突然、

「お新香が遠い!!」と立ち上がり、怒ったまま帰ってしまった。

可哀想なH君は泣きそうだった。


○M先輩の怒り・その2
 
その日は休日で、同僚は皆、部屋のあちこちで好きな事をしていた。
そこに外からの電話が入り、同僚が順番に
「どちら様ですか?」などと、丁寧に応対していたが・・
どうやらイタ電のようだった。そこで私が受話器を取り、

「電話をするなら自分から名乗るもんだー!!」と怒鳴る。すると

M先輩だ!!」と怒りの一言を返して電話は切れた。

ついに私は・・M先輩に、怒りのトラウマを植え付けたのかもしれない、、


○M先輩の怒り・その3
 
やはり休日の朝、M先輩は楽しそうに我々の部屋でプリンを作る
準備をしていた。我々も手伝い、完成。冷蔵庫に。
時間は過ぎて夜となり、外出していたM先輩が帰って来て
満面の笑みのまま冷蔵庫に直行・・扉を開けて固まる!
直後、怒号が部屋にこだました!

「俺のプリンはどうしたー?!」

当然、食べたくなった我々が素直に食べたのである。
そのことを言うと・・M先輩はワナワナと震え、
発狂するかのごとくの表情のまま帰って行った。
もちろん、我々も反省したが後の祭りである・・


○M先輩の怒り・その4
 
まだまだあるけど、このへんにしておきます。
M先輩、本当に申し訳ありませんでした!!
:
松久 由宇
2020.07.11
35

○造反計画
 
私達新人は、佐藤プロダクションにお世話になって4ヶ月を
迎えようとしていた。どんな職場においても、若いという理由だけで
安直な不満は蓄積され、増幅するものである。その思いは、
M先輩をリーダーとして沸点を迎えていた・・・

「皆でここを辞めよう!!」

リーダーの言葉は同僚たちを洗脳し、私も同調した。実はその頃、
私のもとに桑田次郎先生からの手紙が届いていて、
内容は「手伝ってもらえませんか?」だった。
私はここのプロダクションにいながらも行きたい!と、佐藤先生に
お願いしようかと思っていたので、渡りに船だった。 だが・・・

一時的だったM先輩の若気の熱は何故か冷めて、皆も同調し、計画は
頓挫した。しかし、私の計画は進行したままだったこともあり、
佐藤先生に「辞めさせてください!」とお願いし、
次にどうするのかも全て話した。
先生は笑顔で快く承諾してくれた。たった四ヶ月だったが・・
私にとっては素晴らしい時間と職場だったのである。佐藤先生や先輩、
同僚たちには今でも感謝しかない。

ちなみに同僚のH君、S君は後に劇画家としてデビューし、活躍した。
T君は家庭の事情で断念した事を聞いたが、M先輩、K子も後に
劇画界で大活躍したのである。
:
松久 由宇
2020.07.11
36

○桑田次郎の職場にて
 
初めて、桑田次郎の生原稿を前にし、緊張感で身を硬くしたまま、
与えられた仕事を夢の中の出来事のように進めていたが、
無事に仕事を終えて与えられた報酬に驚愕した。
月給900円だった私に、一晩の徹夜報酬が何と「1万円」だったのである!
夢の出来事であった。

佐藤プロを辞めて、桑田先生に呼ばれて手伝った当初の私の立場は
「助っ人」であり、正式に採用された訳ではなかったものの、
私の謎の自信は揺るがなかった。
:
松久 由宇
2020.07.11
37

○佐藤プロ時代・外伝
 
佐藤プロに入って2ヶ月くらいの頃、
吾妻の情報が入り様子を見に行った事がある。

借りたばかり殺風景なアパートの一室に吾妻がいて、
職場を夜逃げしてきたのだという。持ち出した所持品は林檎箱程度の
ダンボールがひとつだけ。中にはガラクタとおぼしき物体が数点のみ・・
布団さえなかった。
これから先の長い人生で、彼はどう生きていくのだろうか?と思った。

当然、彼にはお金がなかった。
 
なにせ50年も前のこと、詳細は忘れたが、その時の流れで
「和紀ちゃん」と再会するのであるが、
逢瀬は吾妻の「金の無心」の為であった。
当時、すでにプロデビューしていた「大和和紀」の住所は知っていたし、
比較的に近所の街だったこともあり、
吾妻と一緒に、無謀で無神経にも夜の時間帯に訪ねたのである。
当時、彼女と忠津陽子は同じアパートの隣同士であり、
ナイトキャップ姿の彼女は不信感のまま、身を守るように、
忠津さんと一緒にドアの外に出てくれたのだが、
やはり「金の無心」は断られた。当然である。

つくづく私と大和さんとのタイミングは最悪のままであった。
私の人生において「和紀ちゃん」と逢えたのはこの時を合わせて
全・三回のみである。(笑)
:
松久 由宇
2020.07.11
38

○トキワ荘のように
 
私が佐藤プロを離れる前、示し合わせたように北海道の仲間達が
上京してきた。

流れは忘れたが、みんなでトキワ荘のように
一緒にアパートを借りよう!的な流れとなり実行された。
西武新宿線、都立家政のアパートが決まり、
一軒家的、小さい物件に決まり、
すでに住まいが決まっていた菊池、川端、和平を除き、
吾妻、伊藤、そして私が、
それぞれにそのアパートの一室を確保したのであった。

3畳一室。家賃、5000円。

そこでのエピソードは多々あるが、
あまりにコア過ぎて・・割愛しようと思う。
:
松久 由宇
2020.07.11
39

○関谷ひさし
 
その時代の割愛には偲びないエピソードをひとつ。

我々の住むアパートは西武新宿線の「都立家政」にあり、隣には
西武池袋線があって、同位置を繋ぐように「中村橋」があって、
私はそこに向かって歩いていた。
何かの情報で、そこに「関谷ひさし」が住んでいる事を知った
からである。

雑誌『少年』の『ストップ兄ちゃん』を筆頭に、
数々の作品で楽しませてくれた大好きな漫画家であり、
その自宅を訪ねたのだ。
 
チャイムを鳴らすと、なんと本人が出て来てくれて、
居間に招き入れてくれた。

居間には古いピアノが置かれてあり、広いガラス越しに綺麗な庭が見え、
その先には岩場があしらわれていて、優しい滝のような水が
音を奏でて流れていた・・

私は緊張のままソファーに座り、親分肌なオーラを放つ、
関谷先生の様々な体験談を聞いていた。
:
松久 由宇
2020.07.11
40

「で、きみは何か仕事が欲しいの?」と聞かれ、

「そうです!」と答えた。

そしてその日のうちに、「虫コミックス」から出版予定だった
『ストップ兄ちゃん』のサイズ合わせの描き足しの仕事を
もらったのである!
 
私は『ストップ兄ちゃん』の生原稿を抱え、
意気揚々とアパートに帰ったが、
思えばいきなり訪ねてきたどこの誰とも知れない若造に、
いきなり大事な原稿を託した関谷先生の勇気と決断は、
まさに親分の采配のようであった。

当然ながら、その日手にした生原稿は数ページで、私の技量を
確かめるテストだったが・・合格。
次から一巻分の生原稿を持ち帰り、必死で作業した。
何巻目の時かは忘れたが
必死過ぎた無知ゆえの暴挙にも出た。
数ページを「描き足し」ではなく「描き直し」たのである。
もちろん本人と見紛うものではない自信はあったが・・・

なんと親分は、それさえも笑って採用してくれたのである。
 
その後の仕事は、反省しつつ、「描き足し」に徹して
やり終えたのであった。

関谷先生には、その懐の深さに感謝するしかない。
:
松久 由宇
2020.07.11
41

○それぞれの職場
 
私は「桑田次郎」。吾妻と菊池は「板井れんたろう」。
川端は「井上英沖」。和平は「水島新司」。伊藤は「池上遼一」。
それぞれがプロ漫画家と密接して生きていた。

この頃、新宿に、漫画を志す若者にとっては聖地のような
『コボタン』という漫画喫茶があり、我々北海道衆もよくそこで合流し
近況を交換、漫画話に華を咲かせていた。

そんな折、我々の所持金が少なく、
新宿から帰れなくなったことがあった。

困った我々だったが、
「似顔絵はどうだ?」と、誰かが言った。そこで・・
画力に長けていた私に白羽の矢が立ち、実行する流れとなる。
街頭でターゲットを見定め、清純そうな綺麗なお姉さんに声を掛けた。
正直に状況を説明し、電車賃だけでもいただけないかと
お願いしたところ、500円での交渉が成立したのである。

当然ながらいつも携えているスケッチブックに、
緊張しつつも笑顔の彼女を描写し・・
似顔絵画家としての私の初仕事を終えた。

お姉さんには皆して大感謝であった。

漫画に夢を託して北海道の各地から上京し、何も知らないままに
元気だけは世界一。

その時には気付きもしない我々の、輝く青春時代だったのである。
:
松久 由宇
2020.07.11
42

○井上英沖
 
覚えているのは、この時期の川端から、あまりにもブラックな
職場状況の愚痴を、散々、聞かされていた事である。
井上英沖も北海道の出身であり、『遊星少年パピイ』で、
テレビアニメにもなった売れっ子で、銀座で歌う美人歌手の
奥さんもいて・・・

川端が言うには、先生からも奥さんからもあまりにも理不尽な要求を
求められていたとの事だった。(詳細は忘れた。笑)
 
実は・・井上英沖と私とは後の出来事を含めて、少なからずの因縁が
ある。私が小学5年生の頃、漫画家としてデビューした彼の作品に
出会い、作品を見て、

「なんて絵が下手な漫画家なんだ?この程度なら俺でも描ける!」が、
その時の私の感想だった。
 
地方公務員だった父の部下が自宅に遊びに来ていて、大人たちが
呑みつつ・・
「漫画に興味があるなら紹介しようか?」と言われた事がある。
その人の同級生が「井上英沖」だった。
当然、私は「あんな絵の下手な漫画家?」のイメージのまま

「・・結構です!」と、お断りした過去があったのである。
 
そんな頃に、桑田先生から「近くに引っ越してきませんか?」
とのお話があった。

仮想「トキワ荘」の、短く、儚(はかな)くも終焉の頃合だった。
:
松久 由宇
2020.07.11
43

○桑田次郎
 
後に『桑田二郎』となったが、この時期は「桑田次郎」だったと思う。

何だかんだで正式に先生のアシスタントとしての採用が決まり、
先生の自宅兼仕事場である池袋の護国寺の近くにある
『パレスマンション』傍のアパートに住む事となった。

三畳の部屋だったが、桑田先生の奥さんの紹介で決まった私の城である。
私の姿が見すぼらしく見えたのか、最初の日に、
緑の長袖シャツをプレゼントされた。

仕事場は六畳の和室で、先生の横に並んだ和式の机が私の戦場となった。

最初、他の手伝いの方がいたのだが、
正式のアシスタントだった訳でもなかったようで、
程なく私一人となり、締め切りに追われる修羅場に置かれることとなる。
いよいよのピンチの時には、臨時の助っ人もあったが
基本、私一人だった。
:
松久 由宇
2020.07.11
44

○箸休め・・

そのアパートに住み始めて程なく、
友人達5人くらいが遊びに来たことがあった。

当然、酒を飲みながらの馬鹿騒ぎとなり、
発狂した上の階に住む学生のお姉さんに
通報され、警察官が来られた。

お姉さん・・・ごめんなさい!!

そのお姉さんかはわからないけれど、
ある日、部屋にいるとノックがあって・・
二人のお姉さんが笑顔で立っていた。
「一緒に遊びに出かけませんか?」という、
デートのお誘いだった。
そんなことしてる場合じゃないと思い込んでいた時期でもあり、
お断りしたのだが、、立ち去るお姉さん二人は残念そうだった。

初対面でこんなこともあるの?と、不思議な思いの私。

似たような出来事に、映画館での不思議・・・

上映前の映画館でのこと。比較的空いていて、
私は中央部の真ん中あたりの席に座った。その列は、
ほぼ私のみだったのだが、何故か若い女の子が歩いて来て、
私の隣に着席した。

女の子は何か話しかけてくる訳でもなく、お互い無言のまま、
気まずい時間が流れた・・・やがて女の子は立ち去ったのだが・・・
私は何をすればよかったのだろうか?

東京の不思議に無知だった私は、
あくまで初(うぶ)なままなのであった。(笑)
:
松久 由宇
2020.07.11
45


○戦場にて
 
オリジナル作『大復活』。平井和正原作の『デス・ハンター』・・
桑田次郎の後期代表作の作業に関わり、締め切りに追われる日々の中で、
私の技術も次第に向上していった。

仕事の手順は、先生が消しゴムの効く青エンピツで丁寧に下描きし、
キャラの顔にペン入れをする。その原稿を私が受け取り、
背景を含めた全てにペン入れする!

仕上げは奥さんの可愛い妹(注・私より年下)が襖を隔てた隣の部屋で
仕上げに入る。
(先生が襖を開けて原稿を渡す一瞬、私は妹を視界に捉える!)

(ちなみに先生は奥さんに対しては名前で呼び、
妹さんのことは「AKちゃん」。妹さんは先生のことを奥さん同様に
「次郎さん」と呼んでいた。) 
 
私は(次の原稿が来るまでにペン入れを終えるのだ!!)と、
横目で先生の進行具合を伺いながらペンを走らす・・・!!
先生はたぶん「私君より先に下描きを終えるのだ!!」と必死!
 
だが、先生は依頼の仕事を容量以上に引き受ける事もあって、
緊張感に満ちた職場は時に戦場と化す。
普通なら間に合わない締め切りの時もあり、アドレナリンが沸騰した
我々はアスリートのごとく、普段ではありえないスピードで作業をこなす
超人に変身して奇跡の完成を見る・・・!!そんな日々の連続だった。
 
とはいえ、締め切りに追われていない長閑(のどか)な日には、
呑気な会話を交わしながら、ステレオのレコードの曲を聴いたり、
ラジオ番組やラジオの浪曲を聞きながら
・・・至極、楽しく作業を進めていた。


○食卓にて

仕事の合間の食卓のテーブルで、向かい合っていた先生が
ふと漏らすように言った言葉が、今でも私の心に残っている。

「私が一年かかって覚えた事を一週間で覚えてしまう。
私君は日本で一番、絵の上手な漫画家になるかもしれないなぁ・・」

今に到って私は・・その時の先生の思いに何も応えてはおらず、
恩返しも出来てはいない。
:
松久 由宇
2020.07.11
46

○戦場の実態
 
今のブラック職場が長閑(のどか)と感じる程の
最も過酷だった作業体験を記したいと思う。
当時の私は、「決して弱音を吐かない」若者だった。
そのことを前提の上で。
 
「パレスマンション」四階の一室が仕事場である。
窓には厚めのカーテン、陽は入らない。和式の机の座椅子の上には
敷布団が敷いてあり、体力の限界時に横たわり仮眠する。

現場は、締め切りの乱打に立ち向かう戦士二人の図・である。

最も過酷だったのは、二時間の睡眠・起きて即・作業で約30時間。
2時間の睡眠・即・起きて30時間・・・2時間の睡眠で30時間・・の
繰り返しのまま、締め切ったカーテンの部屋で陽の光も見ずに、
立ち上がるのは食事とトイレの一瞬のみ。
その状態のまま約一ヶ月半・・・

そんな職場を聞いたことがあるだろうか?

私の精神はピリピリした空気が砕けた瞬間、
爆発・崩壊しかねない感性に到り、我々でなければ
殺人事件も起こりかねない修羅場となった。

だが、奇跡に優しい私の感性のおかげで、
達成感の連鎖する悦びの職場の風景は乱れる事もなく
連鎖したのである。

そのことに感謝すべくは、神・桑田次郎である?! 
否、神も私もどうかしていた!!(笑)

そしてこの頃から、私の反骨精神も目覚め始めていたのである。
:
松久 由宇
2020.07.11
47

PS:超人豆知識
 
変身状態で時間に追われた作業に埋没している時、
タバコの煙が充満した部屋においても不思議と空気は清んでいる・・

時々時間を確認するのだが、時計の針が止まったままで
時間が進んでいないことがあった。不思議な感覚である。

時間が止まったままなのだから、その間、
普段の能力ではありえない仕事量も可能となる理屈である。(謎・笑)
:
松久 由宇
2020.07.11
48

○ 池上遼一
 
過酷な職場にも時には平穏が訪れて休日となり、
そんな時には仲間と会ったりして自由を謳歌していた。

そんな折、友人、伊藤の先生である「池上遼一」から、
助っ人の依頼があった。
吉祥寺に仕事場と自宅のアパートの一室があり、自宅の部屋を見て
驚いた!部屋の中央に、正しく重ねる感性を失ったかのように
山積みされた文庫本の山!?
これらの全てを読んだ池上先生にはどれ程の知識が詰め込まれているの
だろう!?

ちなみに私も中学生の頃、以前紹介した置戸町の、貸出率日本一だった
町立図書館にて、貸出率パワーに取り憑かれたかのように、毎日か
二日に一度のペースで本を借りまくって読んだ時期がある。
一年間で三百冊以上である。その時期で読書を止めた訳でもなく、
それなりに続けていた習慣だから、決して負けてはいないが・・
(負け惜しみ・笑)
 
さて、助っ人として対面した作品は、商業誌でデビューしたばかりの
先生の力作、文字通り『強力伝』であった。
背景を描く仕事を与えられ、新鮮で楽しい仕事だった。
 
だが、最初に池上さんの作業机の上を見て驚いた事がある。
原稿の脇に、ウイスキーのボトルとグラスが置かれていたのである。
そして作業中においても
「こんな仕事、飲みながらでもないとやってられないよ・・・!」と、
漏らしていた。
「飲みながら仕事すると、眼が潰れますよ?」 と言って、仕事中には
一滴も口にしない酒豪の桑田先生とは対照的だったからである。

池上さんの担当編集者さんは講談社に入社したエリートであり、
新人漫画家だった池上さんに対し、おそらく上から目線の高圧的な指示を
下していたのでは?・・・と、思う  

ちなみに、この時の助っ人には、和平と川端も一緒だった。
:

ホームページ